天地創造について、聖書に何と書いてあるかをご一緒に見て来ました。
そうは言われても、すぐには信じ難い、と思われる方もいらっしゃることでしょう。
学校では進化論を学びましたし、この世が神の手によって造られたとは教わってこなかったからです。
では、もっと規模を小さくして考えてみましょうか。
「カメラ」のことで考えてみましょう。
カメラは色んな部品を組み立てて、人の手によって作られました。
これは素直に信じられます。
これがもしも、バラバラにした小さな部品を全部バケツに入れて、一晩中ガシャガシャやっていたら、上手いこと部品と部品が組み合ってカメラが出来たんだよ!
と私が本気で言ったらどう思うでしょうか。
創造を信じるのは信仰です。
でも進化論を信じるのも信仰です。
この世界があるのは、造ってくださった方の手によると信じるか、偶然が重なってこうなって来たのだと信じるか。
どちらを信じるでしょうか。
あるいは、自然そのものが神であると信じる信仰もあるでしょうか。
太陽の神を拝んだり、日本神話、天照大神も太陽の神です。
ある方がこんなたとえを話されました。
昔々、ある男が山道を歩いているうちに、道に迷ってしまいました。
いつのまにか日も暮れてきたそうです。
ここがどこか分からない。引き返そうにもどの道だったか分からない。
すると向こうから提灯の灯りがぶ~らぶらと近づいてきて、村人がやって来た。ありがたい!
親切にもその村人は、男に提灯を貸してくれたというのです。
男はたいそうありがたがってお礼を言いました。
「はぁ~提灯様提灯様。おありがとうごぜぇます。」
そう言って、提灯の前にひれ伏して拝み出したらどうでしょうか。
お礼を言って頭を下げるのは、提灯に、ではなく、提灯をどうぞと差し出してくれた村人へ、のはず。
頭の上の、大きな提灯、「太陽」を造ってくださったのは神様です。
太陽に頭を下げるのは、この男のようではないでしょうか。
聖書ははっきりと、「初めに神が、天と地を創造した。」と言います。
空も、海も、月も、星も
すばらしく美しい草花も、
名前も知らないような花がいつの間にか咲いているのは誰の手によるのでしょうか。
かわいい鳥たちが、知恵を使って生きているのはどうしてでしょうか。
聖書は、神様がこれらを造ったと語りかけます。
創世記を見ていくと、6日目に人が造られます。
よく見ると6日目は、前半獣たちが造られていました。同じ6日目です。
これは人も獣も同じように肉体を持つということでしょう。
同じ弱さを持つものとして謙遜を教えてくださいます。
しかし、人間には「特別」な面も書かれています。
神様は格別な存在として人をお造りになりました。
それは創世記1:26、27「神のかたち」に造られていることです。
「神のかたち」(ラテン語:imago Dei イマゴデイ)
このimagoは「イメージ」ということです。
ちょっと「鏡」を思い浮かべてください。鏡は何かのイメージを映し出すものです。
「神のかたち」は「鏡」のようだと言います。
なんと人間は、神様のイメージを映し出す鏡を持つように造られたというのです。
人は神様と同じように「人格」を持っています。
神様と似たように「物を作り出す力」があります。
知性が与えられ
理性が与えられ
良心が備わっており
魂・霊を持つ存在です。
「神のかたち」には二つに分けられるといいます。
一つは人間が罪に陥る創世記3章以降にも尚、残されている「神のかたち」
人格があることや、良心があること、知性、物を作る力などがそうです。
もう一つは堕落後にだめになってしまった「神のかたち」
すなわちそれは「人にだけ、神と向き合えるものとして造られた」という「鏡」
つるつるのぴかぴかで、神様の素晴らしさを映し出す鏡だった。
人間は造り主の神様を礼拝し、賛美し、崇め、愛する存在だったし
神様と人格的に親しく語らうことができるものとして造られていました。
これが蛇(サタン)の誘惑によって(創世記3章)人は罪に堕ちます。
アダムとエバは、食べてはならないと言われたのに、神の約束を破り、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
神様に従って生きるより、「自分を神とする」「神のようになりたい」と神様に背中を向けるようになりました。
そこから、この鏡にヒビが入り、焼けてただれて、ゆがんでしまったのです。
神様が鏡を覗いても、歪んだ神様しか映せません。
神様が歪んでいるのではなく、映す鏡がひび割れだらけだからです。
「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人や、鳥、獣、はうもののかたちに似た者と代えてしまいました。」(ローマ1:22,23)
けれど、このヒビだらけで、歪んで、焼けただれてしまった鏡を
神様は「もういらない」と言って捨ててしまいません。
もう一度、この鏡を取り戻すために、ご自分の御子イエス様を十字架におつけになることによって
私たちを取り戻そうとしてくださるのです。
創世記3章には、その良き知らせ「原福音」が記されています。
創世記3:14
神である主は蛇に仰せられた。
「お前が、こんなことをしたので、
おまえはあらゆる野の獣よりものろわれる。
おまえは一生腹ばいになって歩き、
ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、
また、お前の子孫と、女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。」
神様の約束を破った人間は、一瞬にして滅ぼされてもおかしくはありませんでした。
しかし、主なる神は、きつい顔を人にではなく、蛇、サタンに向けられます。
そして
「わたしは、おまえと女との間に・・・敵意を置く。」
とおっしゃいました。
敵意とは相対することです。
神様は罪を犯してしまった女とサタンを一緒くたにはしません。
2人の間をまっぷたつに分けて、
「あなたは尚もわたしの側にあり!」とおっしゃっているのです。
また「おまえの子孫と、女の子孫との間に敵意を置く。」
「女の子孫」とはやがて、クリスマスにこの地上に生まれ来る神の御子「イエス・キリスト」のことです。
サタンは悪あがきをして、彼のかかとに噛みつきます。
イエス様を捉えさせ、十字架につけて死なせて勝利したつもりになるでしょう。
しかし、かかとは致命傷ではありません。
「女の子孫」であるイエス様は、サタンの頭を踏み砕いて勝利してくださるのです。
頭は致命傷。
十字架につけて勝利したと思ったサタン。
イエス様のかかとには、くるぶしには確かに釘が撃ち込まれました。
しかし、十字架はサタンを滅ぼすためのものであったのです。
人を神から引き離し、罪を犯させるサタンの頭をイエス様は踏み砕き、私たちを滅びから救ってくださるのです。
聖書をめくってわずか数ページ。
人が罪を犯してそのすぐあとに、神様はこのように救いの道をご用意くださいました。